2008年12月31日水曜日

仙台光のページェント


仙台で最も有名な通りのひとつ、定禅寺通りの「光のページェント」。冬の風物詩として、すっかり定着した。確か昭和30年代に植えられたいう4連の欅が大きく成長し、真夏はひんやりとした木陰を作る。冬に落葉すると、その細い枝の先にまで電球を巻きつけ、いっせいに点灯されると、大きな光の林になる。

今年から、屋根の覆いのない2階建てのバスで、これの見物ができるようになった。ちょっと目線の高いところから光のトンネルを潜り抜ける趣向だ。暖かい光のシャワーに包まれて、皆さん満足気。

 

2008年12月15日月曜日

同じ新花巻駅ですが・・・


遠野に至る釜石線の新花巻駅と、これに交差する東北新幹線の新花巻駅。
片方は、過疎化しつつある村や町に続く単線の小さな駅、片方は技術革新と繁栄の街々に続く駅です。この二つの駅の先につながるものをどのような価値観と尺度で見るのか、遠野はそんなことを考えさせるまちです。

 

大根の山葡萄漬け


遠野の駅前のスーパーで、山葡萄がざる一山いくらで売られていたので、店の人に聞くと、ジュース、ジャムづくりや漬物用など、遠野では幅広く家庭料理に使うらしい。翌日、喫茶店の親父さんに聞いたら、山に自生する山葡萄は、本来は実も小さく、かなり酸っぱい。山葡萄を里で栽培したものを地元では「里ぶどう」といい、おなじDNAなのに粒も大きく、甘味が増す。遠野の人たちはこれを育て、大根と一緒に漬けたり、ジュースを作って楽しむそうです。

「商品化したものは、無いんですか?」
「漬物はともかく、ジュースにして瓶詰めするとなると、大掛かりな装置が必要になるんで、遠野では見かけないね。必要な時には、家庭で作れるしね。」
帰りに、新花巻の駅前のお土産屋に立ち寄ったら、一本1700円也で売っていましたが、これは岩手県久慈産でした。

 

琵琶の弾き語りで遠野民話


遠野の伝承民話は、地元のおばあちゃん達の語り部が、訥々と語るのを聞くのが普通です。柳田国男が編纂した「遠野物語」は、装飾的修辞や余計な感情移入を削ぎ落とした民話集ですから、想像力の欠如した私なんかには、読み物としては恬淡とした印象しか残りません。その点、遠野市立博物館のAV画像で見る昔話は、鮮やかな色彩と幻想的な絵柄で、なかなか魅力的な映像に仕上がっています。
 
民話の中には、凄惨で血腥い話も数多く含まれています。でも、語り部の口を通すと、南部訛りの独特の柔らかさと、こちらが東北弁の細かいニュアンスを聞き分けられないことも手伝って、母親の胎内でぬくぬくと怪異譚を聞くような趣になります。しかし、同じ話でも琵琶の弾き語りで聴くと、琵琶特有の不気味な顫音と心臓の鼓動を高めるような撥音が、おどろおどろしい雰囲気を醸しだすから不思議です。機会があったら、是非お聞き逃しなく。

 
 

2008年12月8日月曜日

遠野のスポーツ流鏑馬

遠野の八幡宮では、毎年9月15日の例大祭で、神事としての流鏑馬が行なわれます。その後、もっと秋も深まってから、「全国スポーツ流鏑馬競技大会」が、遠野馬の里で行われます。

競技としてのスポーツ流鏑馬では
●直線走路の通過タイムに、クラス毎の制限時間が設けられている
●的に矢が的中した場合でも、中心円とその外側で配点が異なる
ので、スピードと正確性の両方が求められます。
 
地元は勿論、青森、十和田、群馬などから選手が集まりますが、驚いたことに、半数はうら若い女性です。神事の流鏑馬では、普通狩装束をまといますが、ここでは、狩衣風、水干風、武士風等実に多彩で、きらびやかです。特に若い女性選手は、宝塚の男役のように颯爽としていて、盛んな声援を受けていました。
 
走路は190M、幅2.5Mで、60M間隔で3つの的が設けられています。秒速10メートルぐらいのスピードで疾駆する馬上から、次々と矢をつがえ、的を射抜くのはなかなか難しく、3つの的全てに的中させる人は、それほど多くありません。なまじっかの乗馬経験では、両手を離すこと自体がおそろしそうで、落馬しないようにするのが関の山ですね。
 
遠野は、昔から馬産の盛んなところで、土俗信仰や民話の重要な主役は馬です。しかし、農耕馬がトラクターに取って代わられ、馬との共生が当たり前だった曲り屋は、今ではすっかり少なくなっています。それでも、乗用馬の育成・競り市や競走馬の訓練などは、営々と引き継がれていますし、スポーツ流鏑馬の試みも、伝統の馬文化を守っていこうとする地元の熱意の表れでしょう。

  

紅葉の重湍渓-遠野

早池峰山(はやちね)の麓に広がる重湍渓(ちょうたんけい)のこと。
前夜の雨に洗われて、この日は早池峰山の頂上までくっきり見えてます。この山は標高1917Mもあるのですが、横にどっしり広がっているので、こうして遠景で見ると、さして高い山には見えません。
 
重湍渓は、渓流に沿って自然の広葉樹林が広がる紅葉の名所です。しかし、駅から遠く、バスの便も良くないので、車がないと訪れるのはちょっと難しいところです。渓流に沿って道が一本通っているだけで、駐車場もトイレもありません。地元の人はともかく、奥入瀬のように観光客がワンワン入ってくるところではないので、のんびり散歩すると、気持ちのよいところです。
 
K夫人は草花に大変詳しい人なので、「あら、○○だわ」とか「こんなところに××が咲いてる」とか仰るが、こちらは「えっ?」とか「ほー」とか、うろんな返事しかできません。そのうち夫人は、渓流のあちこちに落ちている朴(ほう)の大きな落ち葉を拾い始めました。
「帰ったら、朴葉味噌でも作ろうかな」
「お肉を載せると、美味しそうね」
旦那様の血圧が、また上がりそうです。
 
東北は紅葉もさることながら、私のお薦めは新緑です。関東周辺では、透き通ったような薄黄緑の若葉はほんの一瞬で、直ぐ緑影が増してしまいます。東北のブナの若葉を太陽の光を透かして見上げると、黄緑の風が葉っぱに姿を変えて、折り重なったように見えるから不思議です。紅葉の盛りより長く続くので、当たり外れもあまりありません。
 
 

2008年12月7日日曜日

煙突にサンタが


近所のお宅をふと見上げたら、サンタが煙突によじ登っていました。よく見ると、等身大の人形です。個人の住宅でも昨今電飾ばやりですが、ここまで凝る人は珍しい。夕闇にまぎれて、どう見えるかまではチェックしていませんが、そそっかしい巡査が騒ぎ立てなければいいのですが。

 

生活バス運行のNPO

木更津市内で生活バスを運行するNPO法人「ライフサポート波岡」のこと。
木更津市の南部には八幡台・大久保団地などの大団地がありますが、
●駅から遠い
●バスの運行本数が少ない
●市街地に出るのに片道440円もかかる
●病院やスーパーなどの近くに停車場がない
等の問題がありました。そこで有志を募って、会員制のコミュニティバスの運行をスタートしたのが2005年。

現在3台のワンボックスカーを保有し、住宅地、スーパー、病院、市役所などを結ぶ30キロのルートを一日5回循環するそうです。ルート上ならどこでも乗車・下車が可能、運転は14人のボランティアが交代で担当しています。

この活動が通常のコミュニティバスと違うところは
●行政から運行のための財政補助を受けていない
●白ナンバーで路線免許を持たない
ことです。

会員は約200名、月1,000円の会費を運行費用に充てています。しかしバスの年間運行経費は会費収入の3倍もかかるので、逆ザヤを埋めるために、木更津市庁舎での案内業務、公園の清掃、個人宅の庭木の手入れなど、お金になることをアレコレやられているそうで、実にたくましい。 

理事長の近藤弘さんは、古希を迎えてなお意気軒昂、手作りポスターの前で、面白い話をいろいろ聞かせていただきました。関心のある方は、下記に連絡して下さい。
特定非営利活動法人ライフサポート波岡
〒292-0814 千葉県木更津市八幡台3-18-9
TEL/FAX:0438-36-6900

 

蝙蝠安は色男だった!?

(この記事は、2008年2月のものです。千葉も珍しく雪!)
木更津に行ったついでに、歌舞伎ファンにはお馴染みの「与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)」の「切られ与三郎」と「蝙蝠安」のお墓にお参りしてきました。

今から約150年前、八代目市川団十郎が初演し、大当たりをとったこの有名な狂言の与三郎のモデルは、長唄の名跡「四世芳村伊三郎」がモデルだったと言われています。伊三郎は元々は、千葉大網白里の紺屋の次男坊、中村太吉。「お富」のモデルといわれる「キチ」をみそめて深い仲になったため、キチを囲っていた旦那の手下どもに膾切りにされ、簀巻きのまま木更津の川に投げ込まれたそうな。辛うじて一命を拾った太吉は江戸へ出て、キチと再会、天性の美声を買われて長唄の名跡を継いだところまでは良かったが、芸の妬みから毒酒を呑まされ失声、失意の内に故郷に戻ったそうです。

伊三郎に目をかけていた団十郎は、戯作者瀬川如皐に伊三郎とキチをモデルにした狂言を書かせ、自ら与三郎役を初演しました。杉本苑子さんが八代目団十郎に取題して書かれた小説「傾く滝」では、そのときの凄惨なまでに美しい団十郎の芸に、江戸中の女子衆が痺れかえった様が描かれています。

この中村太吉こと伊三郎の墓は、東金市の最福寺にあるのですが、どういう経緯か、木更津駅前の光明寺にもお墓があります。木更津駅を背にして正面の大通りを100メートルほど進むと、右手に光明寺という立派なお寺があり、境内に「切られ与三郎の墓」があります。雨露をしのぐ屋根小屋は、市村羽左衛門が与三郎を演じた記念に寄進したもの。

この光明寺の北200メートルほどのところにある選擇寺(せんちゃくじ)に、与三郎の悪仲間「蝙蝠安」の墓がありました。下卑た小悪人の「蝙蝠安」は、白塗りの二枚目が演る役どころではないので、大名題から屋根小屋の寄進がある筈もありません。しかし、意外なことがあるものです。説明板には次のように書かれています。
『本名:山口瀧蔵。木更津の大きな油屋、紀の国屋の次男坊。男振り良し、声良し、金回り良しのボンボンで、花柳界の寵児だった。夜毎ふらふらと出かけるので、蝙蝠安のあだ名がついたが、ゆすりを働くような悪党ではなかった、云々・・・』 

要するに、あだ名だけが狂言に活かされたようですが、現実の太吉(後の伊三郎)と瀧蔵の間に、木更津での接点があったのか、無かったのか、その辺りは皆さんの方で想像をめぐらせて下さい。因みに、八代目団十郎は人気絶頂の32歳の若さで自殺しており、その動機は未だ謎とされています。「傾く滝」はあくまで杉本さんの創作ですから、念のため。

 
 

有機栽培農家の助っ人-ソフトスチーム加工

Yさんからメールを戴き、千葉県中小企業家同友会主宰の講演を聴きに行きました。テーマはYさんご自身の「野菜など食品加工におけるソフトスチーム加工技術」について。

講演の前に、先ずはテーブルの上に乗っかっている各種野菜の乱切りやペーストを試食してくれとのこと。なるほど、大根、ジャガイモ、かぼちゃ、ごぼう、人参などの有機農法で作った野菜類は、しっかりした味わいと独特の甘みがあって、生のままの美味しさです。青臭さや硬さは勿論無く、かと言って水煮のようなグチャグチャの水っぽい食感ともまるで違います。

これらは、40度から95度Cの間の蒸気で加熱加工したもので、食べられる状態にしながらも、素材自体の味、香り、食感、熱に弱い栄養分などをしっかり残せる新しい技術を使っているとのこと。この技術は、果物、豆類、肉類、魚貝類にも応用できます。

●消費者にとっては、下拵えをした食物素材が手軽に手に入る(冷蔵で最大一ヶ月保存可)
●供給側にとっては、形や大きさの不揃いなものも全部商品化できる
などのメリットがあります。設備投資もそれほど巨額ではないので、既に商品化が行なわれ、菱食の流通ルートに乗って、市販されているそうです。

贈答品にするわけでもないのに、日本人が野菜・果物等の見た目の姿かたちや大きさの均質性に拘り出したのは、いつ頃からでしょうかね? 有機栽培では、『規格外』のものができ易いので、小規模農家にとっては、こういった技術は大きな助けになると思われます。この技術を応用した具体的な事業例は、次をご覧下さい。
⇒http://www.toyohashi-cci.or.jp/joho/2006interview/200602.html

 

くりもとミレニアムシティのこと

千葉栗源にあるこのエコビレッジは、全体がすっぽりガラスで覆われています。真夏の太陽熱をさえぎるために、建物の周囲には欅(けやき)と柳が植えられています。欅は今はまだ、大木と言えない大きさですが、数十年先には深い木陰を作ることでしょう。仙台の定禅寺通りには、欅の大木が4連に立ち並び、真夏でもひんやりした緑陰を作っていますが、あれと同じ発想ですね。天井に開閉部分があるので、風を入れれば、冷房不要という仕掛けです。ガラス越しに木々の緑が映えるので、中にいて実に気持ちがいい。実際に現場を訪れての実感です。

欅は完全に落葉するので、冬場、太陽熱だけでかなり温かいことは、容易に想像がつきます。代表者のOさんの話では、暖房機器としては、農業用のボイラーが設えてあるだけなので、それでも寒いときは電気炬燵に入るのが一番、とか。

大きな温室のような建物の中に、昔のパプア・ニューギニアの写真で見たような、高床式の小さなコテージが立ち並んでいます。大きさは畳2畳ぐらいしかないので、大の男が二人寝たりすると、ちょっとむさくるしい感じ。画像の左側から2番目のコテージの屋根は、木々が交互に差し込んだような形になっていますが、ここは屋根が開閉式になっています。ある学生さんが作ったそうで、「星を眺めながら寝る」のに丁度よいらしい。

このコテージの下がリビングになっています。ソファーが置いてあったり、ハンモックを吊り下げたり、手作りの行灯一つだけとか、皆さんの思い思いのプライベート空間です。プライベートといっても、他人の目をさえぎる構造にはなっていないし、そこに置いてある物は、他人が使っても文句を言わないルールになっているらしいので、半ばパブリックですね。因みに、厨房のある棟を除いて、地面はコンクリートなどを打っていない単なる土間なので、あちこちに雑草が生えていたり、ハーブの植え込みがあったりします。

小学生ですら個室を持って、お城に仕立て上げるのが現代の風潮ですが、それに逆らって、”プライベート”を「方丈記」の作者も畏れ入るような質素な空間に押し込めたのは、今時珍しい発想です。自然の力の活用と人のつながりを重視したミレニアムシティらしい設計です。
 
 

16戸50人の頑張り

智頭の街中から30分ほど車を走らせると、静かな中山間地帯に、新田という名の集落がある。八頭郡のことをネットで調べていたら、わずか16戸50人ほどの小部落でNPOを立ち上げ、村おこしに取り組んでいる、とあったので、一体何をやっておられるのか、ぶらっと訪ねてみた。

杉林と棚田に囲まれた、本当に小さな集落。NPO活動の中核拠点は、「清流の里」という小さな食堂兼喫茶店で、人形浄瑠璃の舞台を設えた広い座敷が続いている。この日は偶々、鳥取のほうから老人クラブの人たちがバスでやってきて、人形浄瑠璃を見た後、昼食を楽しむという。ご一行様が来るまでに予行演習をやるので、見たかったら見てもいいよ、と声をかけてもらったので、厚かましく見学させていただく。

浄瑠璃はテープだったが、人形は首、衣装ともほんまもので、今日の演しものは「傾城阿波の鳴門」の母娘対面の場。人形遣いは、平均年齢60才?前後のおばさん達で、中々年季が入っている。荒ぶる男達の慰みにと、明治時代に始まったこの地の人形浄瑠璃は、途中途絶えかかったこともあったらしいが、代々受け継がれて早や1世紀。 人形浄瑠璃の館や人形の保管庫も整備されて、今や鳥取県のあちこちから声がかかるらしい。

このNPOは大阪の子供達の田舎暮らし体験交流や、研修宿泊施設の運営、長期滞在用ロッジの貸し出し等、日常の農作業の合間を縫って、精力的な交流活動を行っている。行政との間合いの取り方やNPOの収支など、伺いたいことはいろいろあったが、皆さん忙しそうで、それどころではない。昼食の支度や、舞台関係の人たちを含めて、当日のメンバーは、一番若い人で50歳以上は間違いなさそうなのに、皆さん身体がまめに動いて、すこぶる元気。わずか16戸でも、できることがあることを、身をもって示されていた。

 

智頭の石谷家のこと

智頭のまちなか観光の目玉のひとつに、石谷家がある。石谷家は、藩政時代から大庄屋の役割を担ってきたこの辺り屈指の素封家である。これまで、酒田の本間家など、地方の豪商・豪農の屋敷の数々を見てきたが、この石谷家は、その規模と趣味のよさで、群を抜いている。

現在の屋敷は、大正時代に建てられたもので、既に80年の歴史があるが、建物のメンテナンスは完璧。様式は古いのに、新しささえ感じる。それもそのはず、この屋敷は全館が開陳されているのではなく、家人は今も、仕切り塀の奥向こうに住んでおられるらしい。この手の屋敷は、いったん博物館になってしまうと、歴史の重みは感じ取れても、人の気配と生活の匂いは、日々薄れてしまう。その点でも、この屋敷は少し、特殊かもしれない。

客用の表玄関は比較的簡素であるが、この家の勝手口の広さには、驚いた。間口は通常の2倍以上、土間の面積は優に4倍以上。一体何人の人たちが、ここで立ち働いていたのだろうか。台所の大きさからして、大谷家の家勢が並み外れたものであったことが想像できる。

座敷は、書院造あり、江戸座敷風ありで、変化に富み、その数約40。珍品、名品の家具調度類もいっぱいあるのだろうけれど、仰々しい展示は一切ない。「何でも鑑定団」で、全館鑑定をしてもらうと、面白い話がぼろぼろ出てくるかも。

智頭駅から歩いて10分もかからないこの辺りには、古い町並みが、かたまって残っている。智頭急行線や因美線で鳥取方面に抜ける人には、途中下車をお薦めします。
 

鳥取智頭の杉尽くし

鳥取県八頭郡智頭町は杉づくしの街だ。駅前の小さな商店街を辿ると、たいていの家が小さな杉玉を軒先に下げている。昔の屋号や、商売なども表示してあって、中々親しみが持てる。杉玉は、造り酒屋が新酒ができたお知らせ用に吊り下げるものと思っていたが、智頭では、どの家も軒下に飾るのが、昔からのしきたりと言う。

杉玉工房で聞いたら、夏の杉の葉はやにが出るので、彼岸過ぎになって初めて、杉玉制作に取り掛かるそうだ。普通の家庭が吊り下げるものは、直径30センチ以下で、3500円位とのこと。
「それで、一個作るのに、どの位かかるんですか?」
「ほぼ一日かね~。」
「じゃ、お父さんの日当としては、ちょっと物足りないね」
「商売っ気を出して高くすると、皆買ってくれなくなるからね。まちおこしだと割り切らないと・・・」
大きいものは万円単位。工房の軒先にに吊り下げられたものは、片手では全く持ち上がらないほど重い。

杉材で作った梟の彫り物も、智頭自慢の工芸品。目の周りの輪は、自然の木目を浮かび上がらせたもので、描いたものではない。 これが職人さんの腕の見せ所。

杉材で作られた公衆トイレ。杉材を薄く切って、ブラインドのようにはめ込んであるので、明り取りと通気孔の両方の機能を果たして、気持ちがいい。

駅前まで戻ってくると、親父さんと娘さん(ひょっとして孫娘?)のコンビでやっている小さな喫茶店があって、自家製のパンも焼いている。この店(夢屋)の椅子が、また尋常ではない。杉の根株を台座にした木組みの椅子だが、見た目と違って、実にすわり心地がいい。しかし、その重さは、想像を絶する。大の男でも、片手での持ち上げは到底無理、か細い女の腕では、両手でも多分持ち上がらない。
「床掃除のとき、どうしてるんですか?」
「うん、ま~、かなりつらいね。」

今、杉の生産は、経営的には非常に厳しいそうだ。後継者の確保も含めて、智頭の苦闘は続く。

 

ウミネコの必死の追跡-浄土ヶ浜

10年ぐらい前に、宮古の浄土ヶ浜を訪れた時、妙に白っぽい小石の浜と白壁城の様な岩礁、そして気味悪いほど静か‎に透き通った浪打際のコントラストを見て、まさに名前どおりの浜だと感じました。荒波に打たれて日々戦っている巖岩というのではなく、もう悟りきったような風情です。

今回は、この表浄土ヶ浜の裏側にある裏浄土ヶ浜という岩礁地帯の見物に行きました。乗船したときから、私は後部甲板の椅子に陣取って、船の周りに飛び交うウミネコに糞を引っ掛けられないよう、用心していました。船が全速力で走り出すと、ウミネコ達は猛然と追跡してきます。船内で売っているパンをちぎって空中に投げると、器用に飛び掛ったり、取り損なって海面に落ちると、サッと波間に下りていくのもいて、中々敏捷。

指で挟んだパンを直接咥える鳥もいて、若い男の乗客が、反対の手でウミネコを捕まえました。驚いたウミネコは腕の中でジタバタした挙句、記念撮影が終わって無事放免。怯えたウミネコに目玉をえぐられても知らないよ。

たった一片か二片のパンのためにかけるウミネコのエネルギーは、可愛そうなくらいです。あれでは費消するエネルギーにまるで引き合わない。それでも、観光船会社のささやかなアルバイト・ショーのパートナー達は、今日も必死に船を追跡します。

 

片寄せ波の浪板海岸


釜石から三陸海岸を宮古方向に北上すると、国道45号線沿いに白砂青松の浪板海岸を見下ろす展望台があります。昔仙台にいたときに一度来たことがあって、夏休み前の人気のない海で泳ぎました。元々殆ど波の立たない海岸と聞いていた記憶があり、現に泳いだ時も、確かにそうだった、と思い込んでいました。

そんな話を車の中で得意げに話していて、いざ現地に着いてみると、高台から見下ろす浪板海岸には綺麗な波が幾重にも打ち寄せているではないですか。おまけに、何人かのサーファーまでいる!

「えーっ、どうなってんの?」
「浪板って、サーフボードのことじゃないの?」
「サーフィンが流行る以前から浪板って言ってたんだから、そんなはずないけどなー?」

後で調べたら、ここは「寄せる波だけで、返す波がない『片寄せ波』 の海岸として世界的に有名」とありました。どうしてそういう現象がおきるのかは、「砂粒が大きく、引き波が吸収されてしまうから」と書いてありましたが、はっきりとは分りません。次々と穏かにおし寄せる波が、まるで大きな白い板のように規則正しく並ぶ様は、なかなかのものです。
 

三陸屈指の海岸だけあって水も澄みきっています。一方、私の記憶は混濁するばかり。人から聞いたことも曖昧、自分自身の経験記憶も曖昧、となると、脳がクラッシュする前兆か?

 

食材自給の農家レストラン-遠野「横一」


人に紹介された遠野宮守地区の農家レストランのこと。お任せ料理に飲み放題付で、一人3千円で良い、ということだったので、本当に大丈夫かな?と半信半疑状態で出かけました。この農家レストラン「横一」<http://yokoichi.ftw.jp/ >は、立派な農家のつくりで、先祖伝来の建物を殆どそのまま使用しています。

我々が着くと、すでにお膳は整えられていて、遠野の里山の幸満載です。食材は、殆どが親父さんが自分で作ったか、山で採ってきたもので、オール自家調達。馬刺しを食べたい、と言ったら、大きな皿にどっさり。これも旨かったが、近所の馬産農家から仕入れたもの。次に、鹿の大和煮。変なくせがなく、中々美味。文字通りの馬鹿食い。この人は猟師もやるので、鹿、熊、野鳥なども自分で仕留めるそうです。最後の押さえは、自家製の蕎麦。

この日は、他に予約客もいなかったので、親父さんと一緒に酌み交わしましたが、ホームページに、昼食・夕食とも「要事前予約」、と書いてあった理由が分りました。人も車も通らない畑の真ん中で、ウォークインのお客さんをただひたすら待つなんてことは、確かにナンセンス。そんな手空きの時間があるなら、作物を作ったり、山に分け入って、山菜採りや狩猟をするということらしい。要するに、食材の大半が仕入れ原価ゼロ、だから料金も申し訳ないほど格安。

酔っ払った仲間の一人が、へんなことに気づきました。
「遠野って、ラブホテル見かけないよね」
「んだ。市の条例で禁止されてっからね」(ちっとも知らなかった・・・)
「へ~。それで困らないの?」
「ま、どうにでもなるからね~」と、そんなことに金を払う構えはまるでなし。便利中毒の都市住民は首を傾げること、しきり。

 

ジェットフォイルのこと-佐渡⑦

佐渡からの帰りの船を、再びフェリーにするか、ジェットフォイルにするか、ちょっと迷いました。フェリーは両津から新潟まで2時間半かかり、料金は2,440円。ジェットフォイルは、1時間で両港を結ぶが、料金は6,340円、フェリー2等の2倍半です。1時間半の時間短縮を3,900円で買うほどご大層な身分ではないのですが、ま、話の種に、とジェットフォイルに乗り込みました。

見た目には小さな船ですが、船内には220席以上の座席がずらっと並んで、ジャンボ機のエコノミー席の趣。それもそのはず、アメリカのボーイング社が設計・製造したもので、現在は川崎重工がライセンス生産をしているそうです。海水を吸入し、それを勢いよく噴射しながら推進する仕組みになっているので、とも角早い! 船内の表示速度は、時速70キロから80キロの間を指しています。振動や騒音はあまり気にならないレベルで、横揺れもなし。波が静かなら、海上の移動手段としては、中々の優れものです。

でも、料金のことはやはり気になりますね~。朝6時台、7時台の早朝便利用に限って、40%以上の割引はあるものの、通常の往復割引や回数券利用では、一乗船あたり、5千円を下らない。佐渡の住民限定の特別料金制度があるのかと思ったら、それは無いそうです。結局、よほど急がない限り、冬場でも運行の安定しているフェリーに乗るのが一番、ということでしょうかね?

初めてこの島を訪れた私の印象では、佐渡は、1、2泊でバタバタ走り回るような観光地ではなさそうです。遠くて、広くて、懐が深い、と割り切って、最低限1週間ぐらいは滞在するつもりで行かれることをお薦めします。そんな佐渡の四季をゆったり味わいたい方は、佐渡行記<http://sadokouki.web.fc2.com/ >をご参考までに。
  

トビシマカンゾウ-佐渡⑥

今年の夏の佐渡訪問では、大野亀の緑の絨毯の上に一面に咲くトビシマカンゾウを見る時間はありませんでした。それでも、島内の海岸沿いのあちこちに結構咲いていて、尖閣湾の断崖の窪地にも、咲いていました。初めて見たけど、ニッコウキスゲによく似ています。トビシマカンゾウに混じって、断崖の岩にしがみつくように咲く、もっと赤橙色のやや大ぶりの花が「イワユリ」だと教わりました。

「どうしてこの名前がついたんですか?」
「最初に発見された飛島の名前を冠したそうですよ」
「飛島って、酒田の沖合いにある、あの飛島?」
「ええ、佐渡と飛島にしかないそうです」
この二つの島は、北前船の交易でも深いつながりがあったようですが、それよりはるか太古の昔から、自然界の不思議な縁で、繋がっていたのでしょうか? 

後で調べたら、トビシマカンゾウは飛島と佐渡だけに分布するキスゲで、ニッコウキスゲの島嶼型とされているそうです。驚いたことに、若芽、若葉、花(つぼみ)を食用にする、と書いてありましたが、島の人は日常食べているんでしょうか?

尖閣湾の台地にあるお土産屋をのぞいたら、佐渡赤玉石と無名異焼(むみょういやき)が販売されていました。赤玉石は、透明感のある赤い石で、細工物や置石として珍重されているとのことですが、今は産出量が非常に少なくなってしまったので、結構高価です。

無名異焼は、佐渡金山採掘の際の副産物である、酸化鉄を含有する赤土を陶土にしているので、釉薬をかけていないものは赤茶色をしています。薄手の堅牢そうな急須に8千円の値がついていましたが、粗忽な我が家には、似合いそうにありません。重要無形文化財の指定を受け、陶芸家の5代目伊藤赤水さんは人間国宝。)
 

「観る」より「演ずる」もの-佐渡⑤

私は佐渡で広く能楽が浸透していると聞いて、「ああ、世阿弥が配流されてた土地だもんね」と早とちりしていました。ところが、現地の人の話では、どうやらこれは見当違い。「時の室町幕府の冷たい仕打ちにあったのは、世阿弥が古希を過ぎてからのこととされているので、島人に能を広める気力があったとは思えないし、島人にもそれを受け入れる素地や余裕があったとは考えにくい」-言われてみれば、ごもっとも。

世阿弥の遠流から170年を経た徳川幕府の時代になって、金山に目をつけた家康が佐渡を直轄領にしてしまう、その初代佐渡奉行の大久保長安が、奈良春日神社の猿楽師一族の出自だったこともあり、猿楽師たちを佐渡に招き入れたのが、そもそもの始まりらしい。その伝統を汲んでか、佐渡の能舞台は、神社に帰属しているものが非常に多い。時代がさらに下り、武家中心の演能が庶民の間にも徐々に広まって、ふと口ずさむ鼻歌が謡曲だったりするまでに浸透していったそうです。

「佐渡では、子供の頃から、謡や仕舞を習うようですね」
「単に観るもの、というより、演ずるもの、という感覚は強いですね」
「ところで、佐渡をテーマにした能の演目って、何かありましたっけ?」
「残念ながら、古典にはないんです。でも、新しい創作能はありますよ」
世阿弥も、そこまでは手が廻らなかったらしい。

太鼓の場合、舞台で演ずる人は気持ち良さそうだけれど、飽きっぽい私なんかは、5分も観ているうちに、気もそぞろになってしまいます。しかし、昨年暮れに東京で観た、佐渡に本拠地を置く太鼓演奏集団「鼓童」の舞台は、かつて経験したことのないものでした。能、狂言、歌舞伎等の所作や様式も溶かし込んだ大変華のある演奏で、緩急自在、観るものを飽きさせません。さすが、世界に通用するプロ集団です。

でも、佐渡に行って、常に「鼓童」の演奏を観れるわけではありません。この一団は、一年の大半、外国や国内諸都市での演奏活動に飛び回っているようで、毎年夏に佐渡で行なわれる「アースセレブレーション」やそのプレイベントが絶好のチャンスです。太鼓打ちの体験施設もありますから、やってみたい方はどうぞ。
 

中学生の相川音頭-佐渡④

私のように佐渡に行ったことがない人間でも、佐渡おけさと相川音頭の名前は知っています。佐渡に行ったことがある人なら、島内に30以上もある能舞台での薪能や、一人使いの人形浄瑠璃-文弥人形をご覧になったかもしれません。運よく神社等の祭礼に遭遇すれば、鬼太鼓(おんでこ)の奉納も面白そう。佐渡が伝統芸能の島と言われる所以です。

私はこれらのどれも、生で見たことがなかったのですが、今年の夏にたまたま、相川の京町通りで、宵の舞という相川音頭の流しに出くわしました。その日は前夜祭だったのですが、太陽が西の空に沈むころになって、ざわざわと人が集まり始め、衣装を着けた老若男女が慌しく動き始めました。

毎年本祭では、見物客が4、5千名も集まるので、狭い道路に溢れかえる人を掻き分けるように踊らなければならず、ひと苦労するそうです。この日の前夜祭では、出演は4グループのみ、見物もほどほどの混みようで、ゆっくり写真も取れます。

前夜祭の一団に、地元中学生の流しがありました。先頭の提灯持ち(東北では、頭取と呼びますが、佐渡では何と呼ぶのかな?)は女子中学生が二人、続いて、男女中学生の踊りの一団と三味線・唄の地方が続きます。今の男子中学生は、高校生並の体格をしていて、急に伸びた自分の手足を扱いかねるような、ぎこちない仕草です。でも、あと数年も経たずに、若竹のようなしなやかさを加えることでしょうね。地元の人の話では、他所から来るその道のプロが、佐渡の子供達の音曲に対する勘の良さに驚くそうです。子供の頃から、太鼓、笛、三味線、踊りに触れているのですから、さもありなん。

日本海側の民謡や盆踊りでは、共通点として、菅笠や黒い頭巾で顔を隠すように踊ることがあります。「どうしてなんですかね?」という私の問いに、「お上に顔を見せたり、マトモに視線を上げるのは、失礼に当たるからじゃないの?」と、思いがけない返答。なるほど・・・そう言えば、お殿様は偉そうに「くるしうない、面を上げい」と言いますね。でも、本当かな・・・?

 
 

外見質素な宿根木集落-佐渡③

佐渡の西南端にあたる小木地区は、北前船交易が盛んだった頃は、佐渡のメインの港があったところ。相川などの金山で鋳された金銀の積み出しは勿論、日本海側の諸都市と畿内、江戸を結ぶ廻船ビジネスで、大いに賑わったそうです。

現在、直江津と佐渡を結ぶ小木港近くの宿根木(しゅくねぎ)に、伝統的建造物群保存地区があります。大きな岩山を背にして、海岸との間の狭い場所に黒々と密集する集落です。公開されている古民家も一軒ありましたが、大半は現に人が住んでいます。

強い風を避けるため、集落の入口のところに、竹で編んだ大きな風防壁があって、ここをくぐり抜けて足を踏み入れると、車が通れないほど細い路地で家々が結ばれています。庭が殆どなく、黒灰色の壁を接して、みっしりと家が立ち並んでいるので、いったん火が出ると手がつけられないかも?

このあたりの家の壁は、杉や楢?などの板張りで、漆喰は使っていません。屋根は、今は殆どが瓦葺になっていますが、一部に木羽葺きに赤ん坊の頭ほどの大きさの石を並べ置いた屋根も残っています。山形県庄内地方でも昔はこれが標準だったそうで、「蝉しぐれ」等の映画でおなじみのものです。外見は特別凝ったデザインでもなく、ごく質素な趣ですが、内部を覗くと、太い柱や梁が重い屋根を支え、戸障子には漆をほどこし、立派な神棚が設えてあったりで、かつての勢いと内福振りが偲ばれます。今地元では、このような古民家を宿泊施設に転用する試みが始まっています。

宿根木集落の一番奥に、かつて佐渡で大いに栄えたという時宗の古刹が、ひっそりと建っています。佐渡に配流された世阿弥も時宗の法名を持っていますが、かの人もこの道場を訪れたのでしょうか?

 

イゴネリとオキュート-佐渡②

「いごねり」って、聞いたことありますか? 佐渡料理の定番の一つで、4日間いる間に、3回食べました。「いご草」という海藻を細かく裂いてぐつぐつ煮立て、寒天のように固めたものです。刺身蒟蒻のように薄く切るか、ところてんの様に細長く切るか、佐渡の中でも二通りの食べ方があるようです。調味料は酢や醤油が基本。添える薬味は、ネギ、しょうが、山葵、ゴマなど、これもお好みで食します。
 
ところてんよりは海藻の香りが強いですが、のど越しがつるっとしていて、さっぱりした味わい。地元の人の話では、昔は家庭で作って、朝から丼で食べたそうです。今はそんな手間をかける人も少なくなったので、お店で買うと結構高いこの食品を、旅館で目一杯食べるのはちょっと無理ですね。
 
大昔博多に住んでいた時、朝食メニューの定番だった「おきゅーと」によく似ているので、同じものかどうか、あちこちで聞きましたが、皆さん「分からない」と仰る。後で調べたら、やはり同種のものでした。北前船盛んだった頃、佐渡と博多の間に、食の交流があったんでしょうかね?
 
佐渡は高い山や広い平地もある大きい島なので、海のものばかりでなく、山のもの、里のものも豊富です。佐渡コシヒカリや柿は有名ですが、きのこ類、山菜、渓流魚も採れるようです。知人のIさんが経営されている温泉宿でいただいた、筍とカワハギの煮付け、山菜と野菜のてんぷらが印象的でした。ここの温泉は、ぬるっとした美肌系で、しょっぱいお湯。
 
ちなみに、Iさんは、まだお若いのに、3歳のお孫さんがおられます。この子が館内を元気に走り回って、大変家庭的な宿です。お父さんも帳場で頑張っておられるので、なんと四世代の宿です。家庭的と言えば、長逗留している工事関係のグループが、持ち込みの焼酎を割るお湯を、遠慮する風もなく頼んだりしていて、実に鷹揚なもんです。美々しい観光旅館に食傷気味の方は、こういう宿でのんびりどうぞ。⇒
http://sadoseasidehotel.yuyado.net/

 

瑠璃の航跡-佐渡①

ちょっと用事があって、初めて佐渡に行きました。新潟から佐渡両津港まで、2種類の船便があって、ひとつは片道2時間半かかるフェリー、もうひとつはわずか1時間で行けるジェットフォイル。別段急ぐ旅でもなかったので、往きはまずフェリー【おおさど号、旅客1700名と190台の乗用車の積載が可能】に決め、帰りはジェットフォイルを予約しました。

国際会議場の隣にある佐渡汽船の乗り場から、5,300トンのフェリーが静々と出航。疲れたときの身の置き所を確保するために、2等運賃より千円高い1等の指定席をわざわざ予約したのですが、先客が前後のいすを回転させて、新幹線のグリーン席並みの椅子4席を専有して、荷物やら上着を放り投げ、すっかり寛いでいます。その後ろの席も、若い男が同様に4席を独占。ここまで無邪気にくつろがれると、自分の権利を主張するのも大人気ないかと、他の席に荷物を置いて、上甲板に出ました。船では、甲板に居るのが一番気持ちがいいですからね。

後部上甲板では、船の速度に合わせて、かもめが数羽ユラユラと飛んでいます。餌でもねだっているのかな? ほんの一瞬、新潟方向に谷川連峰とおぼしきものが見えましたが、前夜の雨が雲に昇って、直ぐ見えなくなりました。福島と山形県境の方向に飯豊山系でも見えないかと目を凝らすのですが、陸地らしきものが見えません。

この日の日本海は波静かで、群青一色。大型フェリーのスクリューがあわ立てる巨大な航跡が、瑠璃色に輝いています。ロープに浮き輪を繋いでもらって、ジャグジーよろしく浸かってみたら面白いだろうな、などと馬鹿なことを考えているうちに、早くも佐渡の山々が近づいてきました。

両津港から見える佐渡の最高峰、金北山は、標高1,172m。沖縄本島に次いで大きい島と聞いてはいたものの、端から端まで視界に収まらないほどでっかい島であることを実感。

 

鶴岡の超モダン-山形県鶴岡市④

鶴岡の城址公園や旧庄内藩校「致道館」等の歴史的建造物が集中する一角に、これらと対照的な総ガラス張りのモダンな建物が目を引きます。画像の建物には、「東北公益文化大学大学院」と「慶應義塾大学先端生命科学研究所」があるのですが、なんだかハイブロー過ぎて、気軽に入ってゆくという雰囲気ではありません。でも、このキャンパス内に学生食堂らしからぬ小綺麗なレストランがあって、地元の市民も結構出入りしています。

東北公益文化大学(4年制)はお隣の酒田市にあって、以前「土門拳写真美術館」に行った時、近くに変わった名前の大学があることに気が付きました。鶴岡にはその大学院を置いて、庄内の二つの街で役割分担しているようです。学校法人の役員や評議員には、山形県や庄内の自治体の首長・商工会議所の代表者などが名を連ね、「公益」をメインテーマとした非常にユニークな大学です。

この学府が目指す「公益」とは、建学の趣旨書から抜粋すると次のようなことです。
『20世紀は<モノ・オカネ>本位の資本と市場原理の時代であった。・・・ 21世紀は<ヒト・ココロ>本位の時代である。<世のため人のため>の非営利の考えや活動、制度やシステムが大きな位置と役割を占めることになる。そのときこそ、子供が子供らしく、人間が人間らしく生きることのできる公益の時代である。そこに至って初めて資本と市場の原理、そして中央や大都市本位の論理が、新しい公益原理によって検証され、公益と調和のとれる在り方を模索するようになる。』
大学のホームページ<http://www.koeki-u.ac.jp/ > にカリキュラムが掲載されていますので、関心のある方はご覧下さい。

東北の一地方から、このような考え方に立って、新たな学問と実践の府が興されたこと自体、超モダンなことだと思います。農政、環境学から情報処理学までを幅広く学びながら、社会現場で実践することを重視しているそうです。現にここの学生達は、庄内の新たなまちづくりに向けて、さまざまな実験的事業を立ち上げています。

藤沢周平が描いた江戸時代から戊辰戦争を経て今に至る庄内の歴史や山・海・平野に恵まれた自然環境、その自然と賢く折り合いをつけてきた人々の暮らしぶり、などをジックリ見るには、最低1週間の滞在は必要です。鶴岡には、地元NPOが経営する「皓鶴亭」(こうかくてい)という格安の長期滞在施設(http://www.tsurutrust.org/ ) がありますから、ご参考までに。