2008年12月7日日曜日

蝙蝠安は色男だった!?

(この記事は、2008年2月のものです。千葉も珍しく雪!)
木更津に行ったついでに、歌舞伎ファンにはお馴染みの「与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)」の「切られ与三郎」と「蝙蝠安」のお墓にお参りしてきました。

今から約150年前、八代目市川団十郎が初演し、大当たりをとったこの有名な狂言の与三郎のモデルは、長唄の名跡「四世芳村伊三郎」がモデルだったと言われています。伊三郎は元々は、千葉大網白里の紺屋の次男坊、中村太吉。「お富」のモデルといわれる「キチ」をみそめて深い仲になったため、キチを囲っていた旦那の手下どもに膾切りにされ、簀巻きのまま木更津の川に投げ込まれたそうな。辛うじて一命を拾った太吉は江戸へ出て、キチと再会、天性の美声を買われて長唄の名跡を継いだところまでは良かったが、芸の妬みから毒酒を呑まされ失声、失意の内に故郷に戻ったそうです。

伊三郎に目をかけていた団十郎は、戯作者瀬川如皐に伊三郎とキチをモデルにした狂言を書かせ、自ら与三郎役を初演しました。杉本苑子さんが八代目団十郎に取題して書かれた小説「傾く滝」では、そのときの凄惨なまでに美しい団十郎の芸に、江戸中の女子衆が痺れかえった様が描かれています。

この中村太吉こと伊三郎の墓は、東金市の最福寺にあるのですが、どういう経緯か、木更津駅前の光明寺にもお墓があります。木更津駅を背にして正面の大通りを100メートルほど進むと、右手に光明寺という立派なお寺があり、境内に「切られ与三郎の墓」があります。雨露をしのぐ屋根小屋は、市村羽左衛門が与三郎を演じた記念に寄進したもの。

この光明寺の北200メートルほどのところにある選擇寺(せんちゃくじ)に、与三郎の悪仲間「蝙蝠安」の墓がありました。下卑た小悪人の「蝙蝠安」は、白塗りの二枚目が演る役どころではないので、大名題から屋根小屋の寄進がある筈もありません。しかし、意外なことがあるものです。説明板には次のように書かれています。
『本名:山口瀧蔵。木更津の大きな油屋、紀の国屋の次男坊。男振り良し、声良し、金回り良しのボンボンで、花柳界の寵児だった。夜毎ふらふらと出かけるので、蝙蝠安のあだ名がついたが、ゆすりを働くような悪党ではなかった、云々・・・』 

要するに、あだ名だけが狂言に活かされたようですが、現実の太吉(後の伊三郎)と瀧蔵の間に、木更津での接点があったのか、無かったのか、その辺りは皆さんの方で想像をめぐらせて下さい。因みに、八代目団十郎は人気絶頂の32歳の若さで自殺しており、その動機は未だ謎とされています。「傾く滝」はあくまで杉本さんの創作ですから、念のため。

 
 

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